「油山周辺における失われた古墳」資料一括DL
1945年頃の七隈古墳群配置図
●・・・消滅した古墳
七隈古墳群A支群 8基
七隈古墳群C支群 2基
倉瀬戸古墳群 11基 (1~10,13号墳)
大谷古墳群 1基(3号墳)
早苗田古墳群C支群 3基
早苗田古墳群D支群 1基(10号墳)
鳥越古墳群A支群 1基(1号墳)
鳥越古墳群B支群 3基
鳥越古墳群F支群 1基(1号墳)
鳥越古墳群E支群 1基(1号墳
■ 年代別航空写真からみる七隈古墳群と周辺の古墳群 (1945年~1950年航空写真より)
■七隈古墳群A支群 *8基消滅
本古墳群は8基より構成されており、1969年~1970年に福岡市教育委員会と福岡大学歴史同好会が主体となり、発掘調査。
1985年福岡市教育委員会発行の「鳥越・七隈古墳群」発掘調査報告書によれば、1969年の1次調査で、5号墳、6号墳の調査が行われたが、この時、1~4号墳はすでに破壊されており、 調査に至ならなかった。また、5号墳は埋葬施設が不明で、6号墳は多くの石材が抜きとられていたが、横穴式石室を確認している。1970年の2次調査では8号墳が調査され、5号墳、6号墳の後に造営された横穴式石室を確認している。全8基の古墳のうち、3基しか調査されておらず、7号墳も含め、5基が未調査のまま破壊されており、古墳群の全容がつかめないまま消滅したのが残念である。詳細は上記「鳥越・七隈古墳群」発掘調査報告書を参照。
地形図は「鳥越・七隈古墳群」発掘調査報告書より転用
七隈古墳群A-6号墳
七隈古墳群A-8号墳
■七隈古墳群C支群 *2基消滅
七隈古墳群C支群地形図
本古墳群は2基より構成されており、1号墳は2000年に、2号墳は2003年に発掘調査を実施。1号墳は墳丘の大半を失っていたが、主体部は竪穴系横口式石室である。2号墳は墳丘盛土がすでになくなっているが、周溝より長軸5m、短軸3mの楕円形の円墳と推定される。主体部は多くの石材がなくなっているが、竪穴式石槨である。古墳築造時期は出土遺物などから2基とも5世紀末前後と推定される。詳細は2004年福岡市教育委員会発行の「七隈古墳群C2号墳」調査報告書を参照
七隈古墳群C-1号墳
七隈古墳群C-2号墳
■倉瀬戸古墳群
(1~9号墳) *消滅
1971年、別府大学考古学研究室を主体とする倉瀬戸古墳群調査団により下部の1~9号墳の9基を発掘調査。
9基とも横穴式石室を埋葬施設にもつ。詳細は倉瀬戸古墳群調査団発行の倉瀬戸古墳群発掘調査報告書を参照。
(10号墳)(13号墳) *消滅
■大谷古墳群3号墳 *消滅 梅林中学校校庭に移転復元されている
本墳は1971年、福岡市教育委員会により発掘調査。
竪穴式石室を埋葬施設にもつ古墳である。詳細は1985年福岡市教育委員会発行の「大谷古墳群Ⅱ」を参照。
■早苗田古墳群C支群(1,2,3号墳)(片江古墳群2,3,4号墳) *消滅
1972年、福岡市教育委員会により発掘調査。石材の抜き取りが激しく、保存状態は悪いが、3基とも横穴式石室を埋葬施
設にもつ。詳細は1973年福岡市教育委員会発行の「片江古墳群」発掘調査報告書を参照。
■早苗田古墳群D支群10号墳 *消滅
本古墳群は13基の古墳で構成されているが、10号墳を1980年に福岡市教育委員会により発掘調査。石室の保存状態がよく、
両袖単室の横穴式石室を埋葬施設にもつ。詳細は1981年福岡市教育委員会発行の「早苗田古墳群D支群10号墳」発掘調査
報告書を参照。
■鳥越古墳群A支群1号墳 *消滅
■鳥越古墳群B支群(1,2,3号墳)(片江古墳群6,7,8号墳) *消滅
1972年、福岡市教育委員会により発掘調査。天井石等石材の抜き取りは激しいが、3基とも正方形の玄室の横穴式石室を
埋葬施設にもつ。詳細は1973年福岡市教育委員会発行の「片江古墳群」発掘調査報告書を参照。
■鳥越古墳群F支群1号墳 *消滅
■鳥越古墳群E支群1号墳 *消滅
本古墳群は3基で構成されているが、1号墳を1980年、福岡市教育委員会により発掘調査。本墳は単室無袖の横穴式石室
を埋葬施設にもつ小古墳である。詳細は1985年福岡市教育委員会発行の「鳥越・七隈古墳群」発掘調査報告書を参照。
●年代別航空写真からみる山崎古墳群と周辺の古墳群
(1974年~1978年航空写真より)
●年代別航空写真からみる山崎古墳群と周辺の古墳群
(1961年~1969年航空写真より)
■ タカバン塚古墳 *消滅
*1974年~1978年タカバン塚周辺の航空写真
*タカバン塚古墳調査報告書より墳丘図転用
本古墳は1991年福岡市教育委員会により、寺院建設に伴い発掘調査。調査報告書によれば北側墳丘が削られているが、主軸方向に19m、横方向へ16mのややタマゴ型に近い円墳である。石室は石材がほとんど抜き取られているが、腰石の抜き取り跡から両袖単室の横穴式石室と推定される。本古墳は出土遺物から6世紀中葉に築造、初葬され、7世紀初頭まで使用された思われる。遺物は須恵器、土師器のほか、装身具、馬具、鉄器(武具、工具)が多数出土された。駄ヶ原古墳群の入り口部に立地しており、密接な関係が想像できる。
詳細は1993年福岡市教育委員会発行の「タカバン塚古墳調査報告書」を参照。
■ 影塚古墳群 (1号墳) *消滅
影塚古墳群墳丘図
影塚第1号墳石室図
影塚第2号墳石室図
本古墳は2基より構成されており、1971年福岡市教育委員会と熊本大学が主体となり、1号墳を発掘調査。1号墳、2号墳とも古墳の規模も大きく、周辺の他の古墳群に比べ、独立した丘陵に立地していることから、この地域の盟主的存在を思わせる。前方後円墳を思わせるが、円墳で、縦長長方形の玄室の両袖単室の横穴式石室である。2号墳も両袖複室の横穴式石室で、両墳とも油山古墳群の中でトップクラスの大きさを誇る古墳である。2号墳は残存している。
詳細は1972年福岡市教育委員会発行の「影塚第1号墳発掘調査報告」を参照。
■ 山崎古墳群A支群 7基 B支群3基 C支群3基 *消滅
*山崎古墳群第2次調査報告より転用
1次調査は1974年、A支群7基、B支群3基の10基を発掘調査。
1977年福岡市立歴史資料館発行の「山崎古墳群」『福岡平野の歴史~緊急発掘された遺跡と遺物』によれば10基の埋葬施設は横穴式石室で、そのうちの2基は竪穴系横口系統の石室をもつ。古墳の位置関係、規模、形態など概要には示されていない。
2次調査は1993年福岡市教育委員会によりC支群を発掘調査。3基の横穴式石室をもつ古墳を確認している。また、古墳の周辺で多数の土壙が確認されており、興味深い。
山崎古墳群の周辺には影塚古墳群、霧ヶ滝古墳群、西油山古墳群が隣接しており、その関連性も想像できる。詳細は1994年福岡市教育委員会発行の「山崎古墳群第2次調査報告」を参照。
■ 年代別航空写真からみる油山周辺の古墳(七隈古墳群・梅林古墳・梅林八幡宮古墳・干隈古墳群D-1号墳・小袖古墳)
~1945年頃の油山周辺の古墳地形図~
■ 干隈古墳群D-1号墳 *消滅
干隈古墳群D-1号墳墳丘図
干隈古墳群D-1号墳石室図
2004年福岡市教育委員会により発掘調査。
調査報告書によれば、墳丘径約13mの円墳で、埋葬施設は竪穴系横口式石室である。
築造時期は出土された土器より5世紀末頃とされる。本古墳の南西約200mに梅林古墳があり、出土遺物と石室が類似していることから、同時代による築造され、密接な関係が推定される。
詳細は2006年福岡市教育委員会発行の「干隈古墳群D-1号墳の調査」を参照。
干隈古墳群D-1号墳より墳丘図及び石室実測図転用
■ 梅林古墳 *調査後公園として保存
*梅林古墳調査報告より墳丘図および石室実測図転用
梅林古墳石室図
1989年福岡市教育委員会により発掘調査。
調査報告書によれば、現存長約25m、後円部径約15mの前方後円墳で、埋葬施設は竪穴系横口式石室である。
築造時期は出土された遺物より5世紀末頃とされ、6世紀中葉まで追葬されていたものと思われる。須恵器、土師器のほか、鉄器(武具・工具)、馬具、装身具などが出土されている。本古墳の北東約200mに干隈古墳群D-1号墳があり、出土遺物と石室が類似していることから、同時代による築造とされ、密接な関係が推定される。
詳細は1991年福岡市教育委員会発行の「梅林古墳調査報告」を参照。
■ 梅林八幡宮古墳 *破壊
梅林古墳ある丘陵の南側根本にあり、1971年の地名表では径7mの円墳とされているが、現在はかなり破壊されており、墳形も定かではない。
■ 神松寺御陵古墳 *消滅
●・・・消滅した古墳
■ 年代別航空写真からみる神松寺御陵古墳
~1945年頃の神松寺御陵古墳の古墳地形図~
●・・・消滅した古墳
■ 神松寺御陵古墳 墳丘図および石室実測図
神松寺御陵古墳墳丘図
神松寺御陵古墳石室図
1977年福岡市教育委員会により発掘調査。
調査報告書によれば、後円部と前方部が一部削平されているが、内部主体は複室の横穴式石室をもつ全長20mの前方後円墳である。古墳の規模、前方後円墳という古墳形態、立地状況や出土遺物から他の油山古墳群より優位に立つ古墳と言える。築造時期は追葬も考慮し、6世紀中葉まで遡る可能性もある。遺物として、鉄器(武具・工具)、馬具、須恵器、装身具など多数出土している。
詳細は1978年福岡市教育委員会発行の「神松寺遺跡調査報告」を参照。
*神松寺遺跡調査報告書より墳丘図および石室実測図転用