「油山古墳群と集落」資料一括DL
①梅林古墳・・・
1989年に発掘調査。調査報告書によれば、現存長約25m、後円部径約15mの前方後円墳で、埋葬施設は竪穴系横口式石室である。
築造時期は出土された遺物より5世紀末頃とされ、6世紀中葉まで追葬されていたものと思われる。須恵器、土師器のほか、鉄器(武具・工具)、馬具、装身具などが出土されている。
②干隈古墳群・・・
6群16基より構成されている。破壊され消滅している古墳も多く、発掘調査された古墳も数基しかない。その中で、2004年に発掘調査された干隈Dー1号墳は墳丘径約13mの円墳で、埋葬施設は竪穴系横口式石室とされる。築造時期は出土された土器より5世紀末頃とされる。
③七隈古墳群・・・
3群12基より構成されている。この古墳群も破壊消滅している古墳が多く、発掘調査された古墳は5基である。A群では3基が調査され、残り5基は破壊消滅していた。6世紀中葉から7世紀まで継続した横穴式石室を埋葬施設にもつ古墳であることが確認された。2000年から発掘調査されたC群2基の古墳は竪穴系横口式石室を埋葬施設にもつ古墳で、出土遺物から5世紀末の造営と考えられている。
④飯倉E・F・G・H遺跡・・・
E遺跡では古墳時代初頭からの複数の掘立柱建物や竪穴住居が発掘調査で確認されている。F遺跡でも弥生時代後期から奈良時代までの数多くの掘立柱建物や竪穴住居が検出されている。G遺跡では古墳時代後期の竪穴住居や製鉄関連の炉跡が検出された。H遺跡でも竪穴住居が確認されている。
⑤梅林遺跡・・・
1997年から7次にわたり発掘調査され、古墳時代の大規模な掘立柱建物群や多くの竪穴住居が検出された。また、古墳時代から続く水田跡も確認された。
以上のことから古墳時代にこれらの地域では生活が営まれており、地理的にも古墳が造営された地域と近いことから、古墳の被葬者と密接な関係があったと容易に想像できる。
1945年頃の干隈・七隈・梅林地区の航空写真(国土地理院地図より)
①大谷古墳群・・・
11基の古墳から構成され、7基が発掘調査された。横穴式石室を埋葬施設にもつ円墳で、6世紀後半から7世紀の期間に造営継続したとされる。注目されるものとして大量の鉄滓(スラッグ)が出土されており、鉄生産に携わった被葬者とも考えられる。
飯倉G遺跡では古墳時代後期の製鉄関連の炉跡が検出されており、関連性で興味深い。
②駄ヶ原古墳群・・・
タカバン塚古墳も含め65基余の古墳で構成されている。そのほとんどが未発掘で、被葬者の性格はわからない。1991年に発掘調査されたタカバン塚古墳は20m弱の円墳で、単室の横穴式石室を埋葬施設にもつ。出土された遺物から6世紀中葉に築造されたとしている。須恵器、土師器のほか、装身具、馬具、鉄器(武具、工具)が多数出土されている。
③クエゾノ遺跡群・・・
クエゾノ遺跡は6基の古墳と竪穴住居等が発掘調査されている。1号墳は5世紀中葉と推定される前方後円墳で、埋葬施設として、石蓋木棺墓と箱式石棺が確認された。他の5基は攪乱が激しく、築造時期がはっきりとしないが1号墳に続く時期と思われる。ほかに製鉄に関わる遺構も発見されており、鉄生産が行われていたと考えられる。また、鉄器などの遺物から渡来系集団と考えられている。
④影塚古墳群・・・
2基の古墳から構成されており、1971年に1号墳が発掘調査された。独立した丘陵上に立地しており、1号墳は単室横穴式石室、2号墳は複室横穴式石室で、いずれも円墳である。築造時期は2基とも6世紀後半とされる。
⑤山崎古墳群・・・
13基から構成されており、1974年、A群7基、B群3基の10基を発掘調査した。10基の埋葬施設は横穴式石室で、そのうちの2基は竪穴系横口系統の石室をもつ。 1993年にはC群を発掘調査し、3基の横穴式石室をもつ古墳を確認している。
1974年頃の梅林・クエゾノ・野芥遺跡群と油山西地区古墳群の航空写真(国土地理院地図より)
①野芥遺跡群・・・
野芥遺跡群は2023年現在23次にわたって発掘調査され、旧石器時代から近世におよぶ複合遺跡であるが、古墳時代の掘立柱建物や竪穴住居が多数確認されている。主だった遺構として、第1次調査では、住居址(7世紀前半)・土壙・溝が検出された。第2次調査では、古墳時代後期の掘立柱建物2棟・住居址 4軒が検出された。第4次調査では、弥生時代から中世に かけての住居址・土壌・掘立柱建物・ 溝・庭園状遺構などが検出された。第5次調査では、古墳時代前期から中世にかけての住居址・掘立柱建物・溝・土壙が検出された。近接の油山には霧ヶ滝古墳群、西油山古墳群があり、古墳の被葬者はこれらの集落と密接なつながりがあることが想像できる。
②霧ヶ滝古墳群・・・
3群57基の古墳で構成されている。すべての古墳が発掘調査されておらず、被葬者の性格など全容はわからないが、比較的小さい古墳が密集するように造営されており、他の古墳群に比べ、特異な様相である。ほとんどが横穴式石室である。
③西油山古墳群・・・
9群47基の古墳で構成されいる。すべての古墳が発掘調査されておらず、
全容はわからないが、広範囲にわたり9の支群で古墳が造営されている。
現状において、ほとんどが横穴式石室である。
1974年頃の梅林・クエゾノ・野芥遺跡群と油山西地区古墳群の航空写真(国土地理院地図より)
①桧原遺跡群・・・
桧原遺跡群は桧原古墳群を含めた広範囲な遺跡群で、1984年の1次調査から継続的に発掘調査されている。1次調査では古墳時代の竪穴住居跡2棟、掘立柱建物 6棟、土墳 5基、製鉄遺構6基、祭祀遺構 1基などが調査されている。また、鍬、鋤の木製農具も多数出土しており、農耕も垣間見える。3次調査でもは竪穴住居は7棟、掘立柱建物3棟、土壙7基、柱穴50数基、溝2条、水田2面を検出している。
②桧原古墳群・・・
当古墳群は6基で構成されており、1992年の3次調査で2基を調査した。1号墳は横穴式石室を埋葬施設にもつ南北径約20m、東西径約15m規模の円墳である。人骨や遺物も多数出土され、6世紀初頭から6世紀後半にかけての造営と追葬の期間とされている。2号墳は横穴式石室を埋葬施設にもつ全長約40mの前方後円墳である。築造経営時期は6世紀中葉から7世紀初頭と考えられている。副葬品として、馬具、刀、弓金具、鉄鏃が多数出土しており、被葬者の性格が伺える。他の4基の古墳は破壊もしくは埋没しており、詳細は不明である。
③太平寺古墳群・・・
7基の古墳より構成されている。2016年から継続的に福岡大学考古学研究室によって4,5,6,7号墳の墳丘および石室の調査がされた。これらの4基の古墳は横穴式石室を埋葬施設にもつ墳丘径約18m~20mの円墳と報告されている。他の3基については現存すると思われるが、詳細は不明である。当古墳群から北西に位置する源蔵池付近から数多くの鉄滓(スラッグ)が表採されており、当古墳群との関連性も推測できる。
④柏原M遺跡・・・
柏原M遺跡は1983年に発掘調査された。調査報告書によれば、34棟の掘立柱建物,4本の棟列,23基の土壙,20条の溝,8基の土器埋納遺構、24基の製鉄関連炉址など多数の遺構を確認した。これらの遺構は一部古墳時代までさかのぼり、10世紀前後まで存続している。製鉄関連炉跡は古墳時代までさかのぼるものもあり、柏原古墳群より鉄塊、鉄滓(スラッグ)が出土されていることから、古墳の被葬者と柏原M遺跡との密接な関係が具体化している。
1974年頃の桧原遺跡群・柏原M遺跡と柏原・桧原地区の古墳群の航空写真(国土地理院地図より)
⑤柏原古墳群・・・
当古墳群は10の支群、25基の古墳より構成されている。1979年から約3年におよび発掘調査された。A群の2基は当古墳群のなかでも大規模で、2号墳は推定約40mの前方後円墳で、当古墳群の盟主的存在と位置付けられている。1号墳も墳丘径約20mの円墳で、両古墳とも横穴式石室を埋葬施設にもつ。B群は2基で構成され、横穴式石室を埋葬施設にもつ円墳である。2号墳では墓道より数多くの鉄滓(スラッグ)が出土しており、柏原M遺跡の製鉄関連炉跡との関連が興味深い。C群は9基の古墳より構成され、当古墳群において、密集して築造されている。D群は1基で構成されているが、南側に掘立柱建物が検出されており、古墳造営時の小屋と考えられている。E群は1基で構成されており、後世の人骨、古銭が出土された。F群は3基で構成され、1号墳では、径約18mの5角形墳が確認されている。G群は1基で構成され、遺物として、鉄鎌、鉄斧、馬具,鉄鏃等の鉄製品、須恵器、土師器に加え、衡具(錘) と開元通宝が出土されている。H群は小規模な円墳2基で構成されている。I群、J群も小規模な円墳3基と1基で構成されている。柏原古墳群の築造、追葬時期は6世紀後半から7世紀にわたっていたものと考えられている。当古墳群の北側には34棟の掘立柱建物が検出された柏原M遺跡があり、特にA群における被葬者との関連が興味深い。
*太平寺古墳群は2022年福岡大学考古学研究室発行の「太平寺古墳群 大牟田古墳群B支群製鉄関連遺跡」の調査報告書を参照
*本資料を進めるにあたり、リンク先の調査報告書および福岡大学考古学研究室発行の「太平寺古墳群大牟田古墳群B支群製鉄関連遺跡」調査報告書から一部転用、参考にさせていただきました。
1974年頃の桧原遺跡群・柏原M遺跡と柏原・桧原地区の古墳群の航空写真(国土地理院地図より)